1953年、レイモンド・チャンドラー作「ロンググッドバイ」の中で、探偵のフィリップ・マーロウと不思議なアルコール依存症のテリー・レノックスが出会うシーンは以下の様に書かれている。
「我々は、ヴィクターズのバーの隅に腰掛けて、ギムレットを飲んだ。「こっちには本当のギムレットの作り方を知っている人間はいない」と彼は言った。
ライムかレモンのジュースとジンを混ぜて、そこに砂糖をちょいと加えてビターをたらせば、ギムレットが出来ると思っている。
本当のギムレットというのは、ジンを半分とローズ社ののライム・ジュースを半分混ぜるんだ。それだけ。
こいつを飲むとマティーニなんて味気なく思える。」
(レイモンドチャンドラー著・村上春樹訳・早川書房)
チャンドラーの描く男たちは、本物の男としての価値観、道徳の試金石をバーという神聖な場所で語るのが通過儀礼であるかのように描かれる。
つまり好奇心が強く、ほとんど神秘的な兄弟の絆で結ばれたような男達は本能的にお互いを理解し、彼らが出会うと彼らの絆は即座に疑う余地もなく、真剣な酒場での秘跡で封印されるのだ。
チャンドラーについて最も魅力的なのは、彼の特徴的な口調である。それは、困惑した中立的な観察者の口調である。
探偵であるフィリップ・マーロウは詩人であると同時に、マーダーコミックの視点でもあり、そしてなおかつ文章は正確な比喩、格言、賢明な表現に富んでいる。
マーロウ以外の誰が、不誠実な女のクライアントが、「お気に入りの子猫を溺れさせているかのように、非常にゆっくり、非常に悲しいことに」情けない雇われ人を机の上の請求書で押しのけているかしらない。
マーロウ以外の誰が、彼女の声が「病人がベッドから出るように喉から引きずり出された」、あるいは「疑惑が子猫のように顔全体に広がったが、それほど遊び心がない」と、ふわふわした中年の女性を観察するだろうか?
ノワールの伝統、または決まり文句で言うなら、女達がセクシャルな生き物であるならばその女は悪でしかあり得ず、彼女らがセクシャルな存在でないならば、男たちは存在する価値も無い。
チャンドラーの書く散文は、自意識を遙かに凌駕して雄弁さの高みまで達し、彼は単なるアクションテラーではなく、確たるビジョンを持った作家として、確立した作家としての存在であることに衝撃をもって気づく。
「夕方、開店したばかりのバーが好きだ。店の中の空気もまだ涼しくきれいで、すべてが輝いている。(略)しんとしたバーで味わう最初の静かなカクテル――何ものにも代えがたい」
フィリップ・マーロウの前に死んだはずの友人、テリー・レノックスが姿を変えて現れ、素顔をあかす瞬間はこう訳されている。
彼は手を伸ばして、サングラスを外した。瞳の色を変えることまではできない。
『ギムレットを飲むには少し早すぎるね』と彼は言った」(村上春樹訳)
イギリス人はアメリカ人のようにいつも握手するわけではなく、[テリー・レノックス]はイギリス人ではないが…..、
理想的なアメリカ人=白人男性のプロフィールは、彼の著作の中で読み解いてみると、イギリス人=白人男性のプロフィールであることがわかる。
庶民の探偵、フィリップ・マーロウは、本当は恐ろしくスノッブであるということだろうか?
ミソジニー、人種差別主義者、同性愛嫌悪、反ユダヤ主義の何か?
不思議なことに、それでも真の不安定なチャンドレスクスタイルで、知性、視点、さらには深さの尺度を獲得して、キャラクターに生命を吹き込んでいる。
(Ref. “The simple Art of Murder” -J. Carol Oates)
「すべての分野において、最良のものは、それぞれの固有の領域を超える」とゲーテは述べているが、まさにそのとおりだ。
